披露宴 と スピーチ の ページ


披露宴:
写真撮影終了後、私達2人と両親はマーキーの入口でお客様をお迎えしがてら御挨拶をしました。 全員が着席した後 我々2人が入場し、沢山の拍手で迎えていただき、食事を頂きました。


メニュー
ワイン
南アフリカ産 『KUMARA』 ワイン
( Carbernet Sauvignon-Shiraz / Chardonnay )
前菜
『トマト と フェタ・チーズのサラダ』 又は 『アボカドと海老の和え物』
メイン
コース
『子羊のロースト ・ 季節 の 野菜 と ジャガイモ 添え』
デザート
『季節の果物 の コンポート』 又は 『ティラミス』
食後に
数種類のチーズに セロリとブドウを添えて
コーヒーとミント
シャンパン
BRUT 『BREDON』


スピーチ
食事の後、まず乾杯をする為にティムのお父さんにスピーチをしてもらいました。 その後、聖穂のお母さんのスピーチが続き、最後にティムがお客様への来ていただいたお礼を兼ねて、スピーチをしました。
乾杯の為のスピーチ: ジョー・ブラッドリー
  私はティムの父でジョー・ブラッドリーと申します 式においてジャノ(司式者)が説明した通り、この結婚式は伝統的な式ではありません。 本当の事を言いますと、これはティムと聖穂の結婚における、3度目で多分最後になるであろうイベントです。 1度目のイベントは、名古屋の区役所における入籍でした。 2度目は余り公言されていませんが、2人が和装で行った写真撮影です。 (写真の中では聖穂はとても真剣な顔をしており、ティムはギルバート・アンド・サリバンの有名なオペラに出てくる「日本の紳士」の様で、楽しそうに笑っています)。 そして3度目は今日の幸せなイベントです。

  私のスピーチが「ようこそいらっしゃいました」と言う歓迎の言葉で始まらなかったのは、これは実際にはティムと聖穂に権限が有ると思われ、彼ら自身が本日のホスト/ホステスだからです。 実際、彼らは莫大な時間と努力、そして可能な限りの才をつぎ込みました。 皆様に送られた招待状でさえも、紙の作成から彼らの手作りです。

  私も皆様と同様にゲストの一人です。 私と、私の妻ダイアナは今迄名前しか聞いたことの無かった聖穂の親族やお友達に本日お会い出来て、本当に嬉しく思っています。 我々はあなた方が聖穂に、また聖穂と一緒に居るティムに対して今までどれだけご親切にして下さったか、 存じております。 また、彼らがティムの親族やお友達に会うのを楽しんでもらえると良いと考えております。 本日、ティムの大学の友人が - この中の数人は、ティムと聖穂の生涯の友人になるであろうと思うと - この集まりに来ることが出来たのも、本当に嬉しく思っています。 

  今回、この集まりはティムと聖穂の計らいで正式な「21世紀のウェディング・エチケット」に則った堅苦しい式では無いので、この夏の気持ち良い日に心地よい服を着ることが出来ました! 小さいときの恥ずかしい思い出などを私がばらさないと言うことを、ティムは本当に信用しているのでしょうか? 

  地図上でEaton-Under-Haywood(『小川の流れる垣根に囲まれた集落』の意)を探すのを苦労された方は、彼らがどうしてこの会場を選んだのか不思議に思っていることでしょう。 ごらんになってお分かりのように、ここはとても素敵な場所です。 私達の背後にはWenlock Edgeの断崖が広がっています。 地質年代に遡りますと、一時は熱帯の海の底にあった場所です。 現在ここはイングランドでも有数の野生動物が繁殖する場所です。 実際、本日ここに飛び入りのお客が有るとしたら、自然協会の監視員が我々が狩猟パーティーをしていないか見に来るくらいのものでしょう。 道を挟んで反対側には聖エディス教会があります。聖エディスはアングロ・サクソンの聖人でした。 教会の一番古い部分(身廊)はノルマン様式ですが、祭壇は800年前のものです。 聖書台と説教壇は400年前に入れ替えられました。もし教会が物語を聞かせる事が出来たら、このApe Daleに数百年住み続けた人々の生活を語ってくれることでしょう。 約150年前、最初の通信革命がおきました−ここから数百メートル離れたところに出来た鉄道のおかげです。 人々は1ペンスで王国内のどこにでも手紙を送ることが出来るようになりましたが、この地に何世代も住み続けた人々は彼らの子孫がこの地から去っていくのも見ることになりました。 これはEatonにとっては「悪い知らせ」でしたが、ここを出て行った子孫にとっては、より健康で豊かな生活を送れると言う「良い知らせ」でした。 現在この鉄道は必要がなくなり、50年程前に閉鎖されてしまいました。 『1ペンス郵便』もなくなってしまったようです。

  現在我々は航空会社やインターネットの普及により更に発達した通信革命を経験しています。 その昔、人々が教会の教区から放たれた様に、国と国の境界も無くなっています。 ティムと聖穂はこの恩恵を賜る最初の世代でしょうか? 本日の為にEaton Manorを会場に選んだのは、10マイル離れた場所に住む私とダイアナではなく、日本からインターネット・サーフをしていたティムと聖穂でした。 ヨーロッパ、アジア、そしてアメリカから集まった我々30数名は、Eaton-Under-Haywoodにとって今迄で一番国際的な集まりではないでしょうか? 私はそう推測します。

  私の社会科の学説で皆さんを飽きさせてしまいました。。。 ティムと聖穂がどのようにして出会ったかと言うことの方が皆さんの興味をそそるでしょう。 背景として、ティムは小さい時からいつでもエネルギーに溢れ、チャレンジ精神旺盛だったことを述べなければなりません。 彼の少年時代の小さな事件の数々の中で、私が一番良く覚えている一番最初のものは、彼が初めて水泳でプールを横断した時に、余りの頑張りに見学席の大人が立ち上がって拍手をしてくれた事です。 すこし早送りをしまして、12月の寒くて灰色のBryanstonのラグビー場でのこと。 それまで連戦連勝で無敵だったチームとティムが入っていたBruton XVチームが対戦し、ほんのわずかなチャンスを逃さずに勝利を収めました。 彼の多彩な趣味の中の1つにマラソンがあります。 初めてフルマラソンを走ったのはリーズ大学を卒業間際の期末試験の最中でした。。。とは言え、彼の趣味の中でも特に抜きん出ているものに登山がありました。 少年の頃の休暇は湖水地方のマーティンデイルに出掛け(毎年せがまれて出掛けたものです)そこでハイキングの楽しみを覚えました。 Snowdoniaでのロック・クライミング講習を推薦されて受講したこともありました。 そして、大学卒業後、カナダのバンクーバーへ行き、1年間アウトドア・グッズの店で働きました。 ある日彼がイギリスに電話をかけてきた際、なんでも無い様な言い方で、彼とその友人数人がアラスカのマッキンリー山(北アメリカ大陸の最高峰)に登る計画を立てている事を知らされました。 この計画にはブラッドリー家はかなり動揺させられました。 ヒマラヤ登山にも値する、この計画は湖水地方のHelvellyn山を登るのや北ウェールズの岩壁を登るのとは訳が違います。 

   両親に対し、男を証明しようとしている彼のプライドを傷つけずに、どうやってこの計画を中止させようか??? ここで、まずカナディアン・ロッキーでのヤムナスカ社主催の3ヶ月の登山学校に参加する言う合意がされました。 同じ頃、アメリカの大学で数年学んできた女の子が、日本で同じ学校についての雑誌広告を見て、参加することに決めていました。 そうして2人は同じチームで3ヶ月間登山技術を学ぶことになったのです。

   我々は、ティムが電話で聖穂について話す様子から、また学校終了後に聖穂のアメリカの両親を訪問して数ヶ月一緒に過す予定を立てていた事から 「何か有るな」とは思っていました。 そして数ヵ月後、ティムと聖穂の2人は我々のブリストルの自宅に現れ彼らの婚約を発表しました。

   聖穂がイギリスから日本に帰らなければならない日までに一週間しかありませんでしたが、その短い間にも彼女の根っから明るく親切な人柄は手に取るように分かり、義理の娘として受け入れる事に対しても何の問題も無く、我々はとても幸せでした。 これが、ティムが彼女に引かれる理由かどうかは私たちの知る由も有りませんが。。。 ジャノはカナダの氷点下の冬にロープを頼りに一緒に岩を登って居たということもその要素として有ったのではないかと述べていました。 濁流でのカヌーの軽快な操作や、凍った氷壁登りでの機敏さも現在では中々見ることが出来ないでしょう。

   聖穂が英語(米語?)に堪能であることは、我々にとって大きな利点です。 ティムも日本語を話す様ですが。。。彼の日本人生徒からの寄せ書きから見る限り、彼は日本で英語を教える中で、文化の違いを乗り越えた様です。 ダイアナも私も、2人とも日本を訪れたことが有ります。 ダイアナは1960年代に観光客として、私は1950年代の朝鮮戦争の時期に軍人としてです。 また、ティムの曾祖父は1890年代に綿紡績の機械設置をする為に日本で働いていました。 その頃は今とは逆にイギリスの技術が日本でも必要とされていたのですね。 

   最後に、私の伝えておきたい少年時代のティムのイメージをお伝えしたいと思います。 小さな彼は庭にでて遊ぶ時、いつでも 「僕はハッピー、僕はハッピー、僕はハッピー」と口ずさんでいました。 どんな親にも美しい歌声に聞こえる言葉です。 ティムも幾度か辛い時期を乗り越えては来ましたが、彼は基本的にハッピーな人柄です。 今日も彼はハッピーだと思いますし、聖穂もその幸せを共有していると思います。 これが末永く続くことを願って。。。  彼らの2人で共有する幸せに、幸せな結婚に乾杯!

平岩 幸子のスピーチ
  聖穂の母の平岩幸子です。 先程ティムのお父さんが述べてくださった言葉に付きますが、もう一度重ねて2人の為に集って頂いたお礼を申します。 2年間の日本での生活は、ティムにとっては慣れない事ばかりでした。 聖穂は日本語の分からないティムに変わって、仕事にも生活にも、全て 『頑張らねば』と気負っていたようです。 今回2ヶ月半ぶりに会った2人は、まるで聖穂の方がブラッドリー家の娘の様にリラックスして、ティムは本当に頼もしい息子に変身していました。

   聖穂は次女ですが、姉とは年が近いので、姉の変わりに何でもやってしまう機敏な子でしたが、9歳の時、お誕生日のプレゼントにも 「バイオリン」 クリスマスにも 「バイオリン」 と言うので、とうとうバイオリンのレッスンに通わせることになりました。 15歳までにビオラに転向して音高を受けたのですが、その頃には力尽きて音高には受からず普通の高校に行くことになりました。

   高校2年の時、たまたまアメリカ留学の話が有り、バイオリンと同じで自分で調べて自分で行動する力を信じてアメリカへ旅立ちました。 そこでお世話になったのがアメリカのお父さん、お母さん、フラー一家です。 ここからは産みの親、日本の親の私の出番は余り無くなり、アメリカのお父さん、お母さんにすっかりお世話になり、本当に感謝しております。

   17歳でアメリカにわたった時点で聖穂は 「日本へは帰りたくない」 と言っていましたし、私も 「自分の思う様に生きて行ける娘」 だと信じていましたので、日本へ帰ってきても何かの形で外国に行くだろうと思っていたら、突然 「カナダに行く」 と言い出したのです。

   マラソンは苦手で、山登りなどした事の無い聖穂でしたが、その前の年に私と2人で白馬岳にトレッキングをして山に魅せられたのでしょうか?「体力の有る今しか出来ない事をしたい」 と言って、それからは自分の為にだけお金を貯めてカナダへ出掛けていきました。

   聖穂が初めて登った白馬岳は、ティムが日本に来た夏に2人で登りました。 それが日本でのハネムーンだったのでしょう。

   聖穂がもし、音楽の道に進めていたならば、アメリカの家族にもティムにも出会っていなかったでしょう。 もう一つ遡りますと、40年前、私にはイギリスへ来るチャンスが有ったのですが、その頃ロンドンのスモッグのニュースが日本でも報道され、私は父の反対に合い、イギリスに来られませんでした。

   先日、2人に湖水地方を案内してもらった時、そんな話を聖穂としていたら 「やっとイギリスに来られたね」 と言ってくれましたが、それを聞いたティムは 「あなたが40年前に来られなくて良かった」 と言うのです。 なぜかと聞きましたら 「あなたが40年前にイギリスに来ていたなら、僕は聖穂に出会うことは出来なかっただろうから」 と言ってくれました。

   聖穂は今までの人生の半分をアメリカの家族に支えられ、又これからの長い人生をイギリスの家族にも支えられて、普通の人の3倍もしあわせをもらっています。これから世界のどこに住むかわからない2人ですが、末永く見守って下さるようお願い致します。

   優しすぎるティムと、気が強すぎる聖穂ですが 『出逢うべくして出逢った人』 であることを事を忘れずに、そしてどこに居ても神様と2人を祝福して下さった方々の事を忘れずに、二人の家庭を築いて欲しいと思います。 ありがとうございました。

ティムのスピーチ
  こんにちは。 僕はこのスピーチをする段階では既に事前に用意したものを読むことが出来ないと思って、何も用意して来ませんでした。 この機会に、この集まりにわざわざ御出で戴いたことと、我々がここまでやってくるために手助けをして戴いた御礼を述べたいと思います。 招待状でも述べたとおり、皆さんの協力なくして我々はここまでやってこれませんでした。

  これだけ多くの家族や友人がここに集まってくれたのは本当に素晴らしいことです。 今夜は存分に楽しんで行って下さい。

** 実際には、自分のしたスピーチを全部覚えていられないので、今になって、新郎は 「スピーチを事前に用意しておけばよかった」と後悔しています(笑)。


ケーキ・カット

ティムのスピーチの後はケーキ・カットでした。 『雪山』の形をした手作りの生クリーム・ケーキは傾斜になったテーブルに置かれていた為、文字通り "雪崩寸前"... 無事にケーキ・カットを終え、ケータリングの方に切り分けて頂きました。



ファースト・ダンス

ケーキ・カット終了後、少し時間を置いてから ファースト・ダンスをしました。 
私達のファースト・ダンスの曲には、映画 「ウェディング・シンガー」のサウンド・トラックから 『Grow Old With You』 を選びました。



パーティー

ファースト・ダンスの後は、もう皆で ダンス・ダンス・ダンスでした。 
画像でしか説明出来ませんので 「皆さんからの写真のページ」でどうぞ!

All Photos except in "menu" section © 2003 Paul Troughton

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